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テキサスの空の下、猫の事、学校の事、家族の事。。。
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幾つか上の学年の数人に聞いても、
Ph.D.に入ってからのクラスのコンペティティブな雰囲気は同じだそうです。
その原因の一つに、プログラムの厳しさがあるのですが、
ただの厳しさというと説明が足りない気がします。
それは、どの学問・学校だって、どのプログラムだって厳しいはずですから。

その一つの説明として、
ソーシャル・サイエンスの現在の位置です。
ソーシャル・サイエンスは、ソフトサイエンスの一つであるということ。
ソフトサイエンスはコンプレックスサイエンスとも呼ばれ、
物理や化学などのハードサイエンス、またはシンプルサイエンスと比べて
研究室に篭って行うリサーチではなく、
日々の人々の環境や心理をさぐっていくもの。
そのソフトサイエンスの中でも、ソーシャルワークの研究はまだ歴史が浅い
という位置を踏まえて、アメリカの高等ソーシャルワーク教育では
その位置の向上を図る為に、また確立するために、
現在、特にPh.D.のプログラムを厳しくしようという動きの真っ只中にあるという事。
簡単にいうと、これが一段と厳しいプログラムだと現在言われている理由です。

そして、もう一つの説明。
ネットでも多くの人々や、実際Ph.D.を既に取った人達の間からもよく聞く言葉なんですが、
所謂Academic Bullying(高等教育いじめ)。
というと、とても聞こえが悪いのですが、これには勿論皮肉った表現も入っています。
実際のいじめという事ではありません。(^^)

どんなに修士で優秀な生徒であったとしても、その絶対無理だと想うほどの勉強量、
そして勉強内容、試験の内容などは、息切れがしてしまう程です。
それこそ、もーこれ以上いじめないでぇ~と言いたくなるほど。(笑)
その中にいると、必然的にコンペティティブに成ってきてしまうわけです。
勿論、やる気の無い人達を振るい落とすという理由も多少はあるのですが、
ずっと私もそうだろうと思っていたこと、そしてAcademic Bullyingと
呼ばれしまう理由に、率直に、ある意味余りにオープンに、ある教授が
語ってくれました。 これには本当に頷くばかり。

彼女、いきなりこんな事を言い出したのです。
『Do you know why we are so mean to you guys?』と。
(私たちが貴方たちに何でこんなに意地悪かって知ってる?)
彼女がつけた説明は、私がずっと想っていた事だし、
幾つか前の日記にも書いた、『Learn to be humble.』と同じ説明でした。

『一つに、リサーチャーになるならば、
 自分の研究結果を”絶対”と”断言”してはならない。
 自分の研究結果に謙虚でなければならない。
 そして、博士と呼ばれる人間になるのだからこそ、
 勘違いしてしまってもいけない。
 特別偉い人になるわけでもない。
 そして、私たちが勉強したり、研究したりする知識は、
 聞かれてもいない場所で、人にひけらかすためのものではなく、
 その知識を社会向上のためにDisseminate(普及)させるためのものだ。
 貴方たちに、勘違いして傲慢になって欲しくないからこそ、
 私たちは貴方たちに敢えてMean(意地悪)にしているわけだ。』

と言っていた。 つまり、『博士』というタイトルに酔いしれたり、
勘違いしてしまいやすい私達人間の鼻をへし折る為にという事だろう思います。
思わず私は『I knew it!』と口ずさんだのだけど、本当に彼女の言うとおりだと思いました。 
そして、この聞こえは悪いが、
所謂Academic Bullyingを真正面から受けなければいけないと思いました。
教授たちも、そんな嫌われ者には誰もなりたくないでしょう。
それを、私たちのために敢えてやってくれているわけです。
人間は、どうしても自分の居心地の良い所にいたいし、
耳障りなことより、自分の耳に心地の良いことだけ言う人と一緒にいたい。
でも、それは果たして自分のためになっているのでしょうか?
敢えて悪者になったり、厳しいけれど苦言を呈してくれる人がいるという事は
何とありがたいことなのだろうかと思います。

特に、人の心を研究するという在る意味神聖な仕事に
『謙虚さ』は欠かして居はいけないのだと思いました。

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ここの所つれづれに書いていますが、自分の中の変わらねばならない部分が変わって、
負な部分をポジティブな方向へと変えたことで、
まったく周りの人々や空気が変わったり、
困ったなぁという事があっても、それを解決してくれる事がすぐ起こったり、
なんてちょっと不思議な体験をしています。
って、これは不思議な事じゃなくって、因果は巡るっていう当たり前の事なんだけど。(^^)

私が通っているカイロのおじいちゃん先生はとてもスプリチャルな人なんですが、
彼も、日本でいう『言霊』というような事を、偶然先週はなしてくれました。
(これも、偶然ではなく、私の考えがポジティブに変化した事で起こった必然)
彼は、絶対ネガティブな言葉を使わないようにしているそうです。
例えば、『Hate』という言葉。 そして、患者さんの予約を受けるときも、
『はい、じゃぁ二時に○○さん入れときますね。』という表現をするときの、
『Put you down』という言葉は絶対使わないそうです。
Put downという言葉のネガティビティーを使いたくないそうです。
彼も、言葉からでるエネルギーは回りまわって自分に返ってくると言っていました。

話を元に戻して。(^^)
これは私だけではなく、一学期目の最後の頃、クラスの中には負のエネルギーが蔓延。
人が一人、二人と減っていく中、サバイバル的な空気になっていったからでしょうか。
私もその空気に飲み込まれていった一人でした。
皆成績優秀で生きてきた人ばかりだったので、周りが皆敵に見えてしまったのでしょうか。
それは一つのことが原因ではなく、いろいろな事が重なったのだと思います。
クラスのなかでは、沢山の隔たりが出来てしまっていました。

でも、お休み中にお話した人も居たけど、学期が始まってからも他の人達と、
自分が一学期目に感じたことを正直にお話してみました。
そうすると、彼らも同じことを感じていたって。
お話できた事も原因だけど、何より私が変わった事で、私の周りの見方も変わったし、
周りの人達との関わり方も変わったからでしょうか、
今学期は、先学期と全然違う雰囲気でクラスが和やかです。
『サバイバー』としての絆もできたのかな。(^^)

いつも無口だった遠いところから通っているデュカプリオ君(似てるんです・^^)。
学校の階段で会うや否や、
『ヘイ、リエル! お休みどうだった?
今学期からはパートタイムじゃなくって、キミと同じフルタイムだから宜しく!
仕事はやめられないから、フルからパートタイムにしたから、まだきついけど。
勉強会もできたらいいね。』
と明るく声をかけてくれました。 
彼は無口ってこともあるけど、一番優秀なんだろうって噂されていた子。
その彼が、『成績も思った程の成績が取れなかったんだ、でも頑張る』という事も
さらっと言いのけたんですね。 
その爽やかさに、是非頑張って欲しいと心から思いました。
小さい子どもを二人抱えて、奥さんも学生さん。 大変だと思うけど、
その頑張りは必ず花が咲くと思います。
皆、虚栄を張る時期は通りすぎたんだね。
そういう私も、肩の力が落ちていたから、相手も話かけやすかったのかな。(^^)

そして、少ない外国人生徒として、先学期も頑張っていたクラスメート。
彼女は、母国でリサーチャーを既にしていたので、
リサーチ方法論や、統計が得意な子。
私は、ずっと彼女は鼻高々な子なんだって勝手に思い込んでいました。
そう思った私も、きっと彼女に冷たくしていたんだろうなって、今思えばわかるのです。
その彼女の本心を、ふとした会話からうかがい知ることが出来ました。
英語、とくに『喋る英語』がとても苦手で、その上その英語でのプレゼンテーションは、
口から心臓が飛び出してしまうかと思う程緊張していたって。
その自分の苦手な部分をカバーしたいがために、
統計や、リサーチ方法論という、外国人でも頑張れる部分で頑張ろうと思っていたようです。
英語がちゃんと喋れないのに、何で博士課程にいるのかな?
博士課程ちゃんと卒業できるのかな?的な目で見られたこともあったようでした。
そして、その反対に彼女は『アメリカ人=英語が喋れても、数学のレベルが低い』という事で
自分の心のバランスを取ろうとしていたようでした。
でも、そういう事じゃないって気がついて、
別に自分の英語が上手くしゃべれなくても、それはそれでいいって思えるえるようになったらしい。
相手の悪いところを見てホッとするんじゃなく、
お互いの良いところを認め合えるのが一番だって。
そうしたら、変に片意地はらなくて楽になったらしいです。

私はその逆だったんです。
英語のプレゼンは得意な方だし、ディベートも大好き。 
(特にアメリカ人やり込めるの好きかも・爆)
でも、数学計が苦手。
彼女が言うには、そんな私が外国人なのに堂々として自信満々に見えたそうです。
(歳の功で、ずうずうしいともいうんだけどね・爆)
近寄りづらかったって言われました。(ToT)
何と、私は彼女が鼻高々に見えたのに、
彼女は私が鼻高々に見えたのでしょうか。。。。
つくづく、『人がどうのじゃない、自分やな』と思い知らされました。

皆、得手不得手があってあたりまえ。
喋る英語がヘタだからって、博士になれないなんておもわない。
統計が苦手だからって、博士になれないなんて思わない。
新しい統計の先生も、苦手で結構、でも『努力が大事』というような事を言っていました。
そして、クラスメートが、それぞれの得意な部分をお互いに協力しあって助けていくべきだと。

『私もOK、 貴方もOK』という態度ではないと成功しないのだとつくづく思いました。
その逆の、自分を肯定するために、相手を否定する。
これは、大きな意味での『成功』や『幸福』にたどり着けない要因となってしまうだろうと。

そんな風に、自分が変わってから、周りのクラスメートとの交流ももっと深くなった気がします。
なんてことを考え出して、前向きに頑張ろうって思え出してから、また新しい出会いもありました。
今年の高等統計のクラスには、去年までのようにクラスの外でのTutor的な人が居ないと分かり、
うーん、こりゃぁどうやって苦手な事を超えていくか?と考えながらPh.D.ラウンジに行くと、
今まで会ったことの無い、もうすぐ卒業だという女性と出会いました。
何時も混んでいるラウンジも、そのときだけは二人だけだったので、
色々お話をしていくうちに、彼女が統計がとても苦手だったこと、
そして、でも苦手だからこそとても努力して頑張ったことを話しだしました。
私も余り得意じゃないけどというと、
行き成り鞄からプラナーを出して、メモに何かを書き出し私に差し出しました。
そこには在る人の名前とE-mailアドレス。
『このひとは、ダラスではダントツの数学の天才よ。
 私のTutorだったの。 
 私が紹介するから、是非貴女も彼にTutorしてもらいうといいわ。
 私が、今統計が得意になったのは、この人のお陰』
ラウンジに入るまで、『高等統計』の勉強方法を悩んでいた直後のこの出来事。
ちょっと鳥肌たつほどでした。

そとにポジティブなエネルギーを向けると(人を良い方に理解しようとしたり)、
ちゃんとポジティブなことが起こるんだと、だれかが見せ付けてくれたような。
不思議な体験でした。
彼女は就職先も決まりかけているようで、『おめでとう、がんばってね』と
私から又ポジティブな言葉のお返しをしました。

自分が変われば、周りも変わる、そんな体験をここの所立て続けにしています。

今日二つめの備忘録。 矢継ぎ早に思ったことを書き留めています。

Humble という言葉には結構ネガティブなイメージの語訳をするときもあるんだけど、
使い方によっては、『謙虚』という良い意味で使われる事も多いです。
アメリカ人に『謙虚』なんて言葉は無いと思う事は多いけど(^^)
そうでないアメリカ人も中にはいます。
経験が深かったり、知識が深い人ほど、『謙虚』さを行動に移す人は多いと思います。
その反対に、何も知らないからこそ、勘違いして偉ぶる人も確かにいます。
自分が習ったばかりの真新しいありったけの知識を並べて、
『どうだ!』と虚栄をはりたがる人もいる。
それは、見てる人も分かるので、痛々しい気分にもなる。
自分にもそういう時期が確かにありました。 若気の至りとしか言いようが無い。(--;)

私が博士課程にはいって一番の勉強になったことは、Learn to be humble. という事。
学校のとある教授、そして最近出会った他の分野でPh.D.をもっている人の両者が
この私の考えに、大きく頷いて、Wellcome to Ph.D.と言っていました。(^^)
知れば知るほど、自分が知らない事の多さに圧倒されるので、
もっと学ばなければ、もっと学びたい!と謙虚な気持ちが増えてきました。

学部長だったある教授も、先学期にこんなことを言っていました。
『自分が何が苦手なのかを認めて努力する人のほうが、
自分が何が得意なのかを誇示して虚栄をはるひとより遥かに成長できるはず。
それは博士としても、そして人間としても。』
というような事を言っていた。

まだまだ自分には知らない事が沢山。
そう思うとワクワクしてしまうのは私だけでしょうか。

今学期のクラス、三つともいろいろな意味でワクワクしています。
先学期の中級統計に続く高等統計のクラスでは、もっと概論的なことも学べる。
質的リサーチ方法論のクラスでは、これを教えるには新しい教授なんだけど、
試験はなくて(←これが一番うれしいかも^^)、目新しい課題が多いし、
質的リサーチ専用の新しいソフトウェアも学べる。
社会政策分析のクラスは、前から好きなSubjectでもあったし、興味があること。
でも、もっと詳しく掘り下げていくクラスであるし、
私がPh.D.に入ろうとした一番の動機に、とある社会政策への疑問があったんです。
それを掘り下げていけることが楽しみです。 
全て新しい事、自分が知らない事を学ぶのだから、新しい発見も多いはず。
新しい、自分が知らない事を学べるって、ありがたいことだし、
自分をもっとHumbleにしてくれるのですね。

心が安らぐと書いて安心。
私が博士課程に入った先学期に、
この真逆の『不安』を体験した人が多かった。
安らぎが無いと書いて、不安。

このプログラムがどれだけ大変か、
周りは出来る人ばかり、なんて考える中、陥りやすい罠。
それは、人と自分を『比較』するということと、人を『批判』するという事。
勿論、自分もこれに陥った時があった。
そして、それにどっぷりつかってしまったというクラスメートの話も聞けた。
提出物が返ってくるたびに、自分は○○点だったけど、リエルは?と
執拗に聞いてくる人達もいた。
(アジア人=皆超頭いいと思われてるわけで。^^)

そして、ふとひらめいた瞬間。
『何しに来てるの?』という言葉が口をついて出てきた。
もちろん、自問でもあるし、他の人への質問でもあった。

人と自分を比較して、
『はぁ~、私は○○さんより出来てる、良かった~』
『××さんって、あんな事も出来ないのか~』
『○○さん、ああいう事は頭いいけど、こういう事は苦手そうだ。』
と思って、安心してみようと試してみる。
その逆に、
『あ~、○○さんって何でもできて凄い。 僕はどうしよう。。。。』
と不安を自分で勝手に煽ってみたり。

中でも、『競争意識』ほど、健康な魂を蝕むものは無いと思う。
(成果、結果主義のアメリカには多い事なのだけど。)
最悪な競争心は、相手への嫉妬を燃やし、
相手へダメージを与える事でホッとする事だ。
『○○さんって、××も出来ないの? 私は出来るから良かった。』
『○○さんって、××ももってないの? 私は持っているから良かった。』
それはもう、傲慢と劣等感の混沌とした世界。
自分に自信があったら、こういう考えは出てこない。
つまり、自信の無さの表れ。

そういう事を繰り返していても、『安心』できる日はこない。
人なんてどうでも良いんだね。
人と自分を比べてじゃなきゃ、ほっとできないとか、
人を批判することで、ほっとするとか、
そんな『ほっ』は本物の『ほっ』じゃないから、
又すぐ不安に陥る。
その繰り返し。

自分が何をできるか。
自分がどうできるか。
自分が何を学べるのか。

これに気がついたとき、本当の『安心』がやってくる。
それも、簡単になくなってしまうことの無い『安心』。

それを感じだしてから、
勉強することが本当に楽しくてしょうがなくなった。
それは、自分らしく勉強できるからだし、
自分の事だけに集中できるからでもあるし、
『学ぶ』ということを満喫できる余裕も出てくるから。
つまり、『勉強』という瞑想をしているようなもの。

これは学校だけのことじゃない。
皆の心から、人との『競争』や人への『批判』を考える時間が無くなれば、
全てが、効率的で、健康的になる。
競争心は、勝手にもたれる事も気持ち悪いけど、
勝手にもつ事も、居心地がわるくなるものだ。

これは、真に自戒の念も込めて、そう思う。

この一週間、家でのんびり~と思いきや、
何だかアチコチ出歩いている状態です。(^^)
ボランティアも幾つかこなしました。
出来るだけ、草の根の部分を忘れたくないから。
教科書上にはない何かを学ぶために、参加しました。

そして、片道一時間弱かかる学校にも、
学期が終わったらいく気がなかったのですが、
何だかんだ用事ができて行ったりしています。

何年か先輩の人達や教授陣と、
ゆっくり学校で話す機会もあったり、
忙しいセメスター中には出来ない事だっので
色々な角度から、これからの自分の通る道のお話が出来て良かったです。
数年前には、私と同じ道を辿っていた人達の励ましは心強い。
そして、うわべだけではない、根の張った人脈つくりもとても大切で、
休み中だからこそ、そういう事に時間をさいてみたいと思います。

そして、私が先学期、一つ大きな反省をしたことがあります。
次のセメスターから繰り返さないようにしたい事。
だからこそ、色々自分で、この休みに見つめてみたい事。
それは、日々の大変さや、競争の激しい独特な空気の中、
『助け合う』という気持ちが、最後の方になって薄れてしまった事なんですね。
心の余裕がなくなったとき、本当の自分が見えてきたりする。

一人の数年上の生徒が、
『ここは、ただのPh.D.じゃない。 ソーシャルワークのPh.D.。
 幾ら競争が激しいからといって、困っている人に知らんふりしたり、
 自分より出来ない人を見下したりするのは本末転倒。』
というような事をいっていましたし、
数人の教授陣も、実はそういう人間性の部分を、将来博士になる人間として
成績以上にチェックを入れているという事に、とある会話から気がつかされました。
教授陣、『弱きを助ける』態度をきちんと見ていたんですね。
これも、時間がある休みの時の会話から学ぶ事が出来ました。
休みとはいえ、色々収穫があります。

私は忙しさに感けた事だけではなく、
実際、毎週誰かが去っていくサバイバル的な雰囲気のなかで、
心が冷めていく自分に気がつくことができました。
幸い、最後の数週間で、『はっ!』とさせられる瞬間があり、
博士課程という過酷な環境の中でも、
自分の心の状態は、周りがどうであれ、自分次第なのだと気がつかされました。

人間の心の中には、誰にでもドロドロとした部分がある。
それを知っているからこそ、そのドロドロを最小限に減らしていく事が
『人間』としての仕事の一部なのだと常々おもっていた自分が、
やっぱり、『心の余裕』がなくなったとき、
他人の事より自分の事が大事になり、
他人の失敗を冷ややかに見つめていたり、
他人の欠点ばかりが目に付いてきたり、
と、嫌な自分に傾きかかっていた時期がありました。

でも、違うんですね。
それって、他人のことじゃないの。
それは、結局自分の事。

そして、何で私はソーシャルワークを勉強しているかという
一番大事なコアな部分を忘れていたという事。
確かに、そういう事を忘れている人達も、教授陣にも生徒にもいます。
でも、それはその人達の生き方。
自分は、そうは生きたくない。 
人間としての大事な、人を思いやる心や、困っている人を助ける心が
かけていかねばドクターになれないのであれば、
私はドクターにならなくても良いと思います。
実際、精神的にも安定した生徒たちもいるのですから、
それは全く無理な事ではないのですね。

人にドクターと呼ばれる人間になるのならば、
人間性も、それに適したものをもっていないといけないと。
これも、全て自分自身の心が決める事。
そして、それに向けて努力をする事。
これも大事なんだと実感しました。

人間死ぬときに、神様は、
『おー、博士か!』なんて事を言うわけもなく、
そんなことは、どうでも良い事で、
『どう生きてきたか? 周りに何が出来たのか?』
という事を問われるのだと思うのです。

面白い事に、そう思ってからのほうが、
学校の勉強も楽しいものに変化しましたし、
もっとクリアな目標も掲げられるようになったし、
改めて、ネガティブはネガティブしか生まないし、
ポジティブがポジティブを生んでいくんだと、
そして、それは誰でもない自分の心一つで変わっていくんだと思いました。

この歳になっても、毎日勉強です。
まだまだ欠点だらけの自分だけど、
その欠点を見つめてみて、
そこからどう良い方向に変化させていけるのか、
そういう意味で自分の可能性を見つめてみたいです。
おばあちゃんになっても、ね。(^^)

来学期、こういう自分の欠点を克服して、
勉強もさらに頑張っていきたいと思います。 
博士課程の修行は、私に勉学以外の部分の成長も促してくれています。

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